取捨選択、もう1段階上の断捨離へ。

ここ最近、また断捨離しています。

 

それまで、ちょっと心配事や、鼻詰まりでちゃんと眠れなかったりで、そんな時はお部屋も本当に汚い^ ^;

 

でも、悩んでも結局のところ、私は私の出来る事を精一杯やろうと思えたり( いろんな人に相談はしていたけど^ ^)、鼻詰まりも少しずつ良くなって来て(寝ると鼻が詰まって口呼吸になって起きちゃうパターン)、普段出来なかった掃除をしたり、そうそう娘と歩いたり、そうやって気持ちが上がってくると、断捨離も進んで来る。

というか、今までと違うもう1段上の段階への断捨離へと進む感じ?

 

 

今年に入って母が他界して、暫く会っていなかった分、実感があまり無くて。

それでも49日まではと、母の写真を飾りお線香をあげてました。

49日が終わった後も写真を飾っていたのだけど、その写真を見るたびに心がキュっと小さく締め付けられるのです。

いろいろしてあげられなかった後悔や、ぶつけられなかった痛みや、母の笑い声や、いろんなこと。

そんな事が頭によぎるたびに、小さく胸を締め付ける。

ホントに小さな事だから、自分の胸に留めて置けばいいだけのことかもしれない。

誰かを失えば多かれ少なかれ、誰だってそんな風かもしれない。

でも、そこには確実に元気のない私がいる。

 

で、気付きました。

写真をしまおう、と。

 

大事にお財布にしまいました。

会いたい時にいつでも見れるように。

 

断捨離とは少し違うかもしれないけれど、過去に胸を締め付けられることを私は手放したい。

手放すってことはやっぱり断捨離なのかな。

 

元気の無い私に私が気が付いたのなら、私が取捨選択をしてあげなきゃ、なのです。

 

人生は1度きり。

母の人生を思うと、やるせなくなるけれど、きっと母は私の幸せを願ってる。

親はいつだって子供の元気無い姿に心配しちゃうものだから。

子供の笑顔が1番見たいはずだから。

私は元気のない自分を手放そうと思うのです。

 

この事は他のモノにも当てはまる事なのかもしれないなー。

活躍してないモノ。

壊れて使えないモノ。

まだ使えるけれど、今の自分には似合わないモノ。

凄く使ってるけど、ホントはお気に入りじゃないモノ。

心が少しでもキュっとなってしまうなら、それはキチンと向き合ってさよならした方がいいっていうサインなのかもしれない。

普段の生活でバタバタしてると、そんな小さなキュって音はあんまり感じないのかもしれない。

だから、そこに気がつくまでが難しいのかもしれない。

私の場合は、写真のあった部屋が片付いていって、最後にごちゃごちゃした棚を眺めてふと思い立ちました。

そこにあった写真を眺めてキュっとした時に。

もし、まだお部屋がごちゃごちゃしていたならそれに気が付かなかったのかなーとも思います。

 

断捨離はそうやって少しずつ少しずつ、新しい気付きを得て、身も心も軽くなって行くのかもしれない。

 

道はまだまだ果てしない、でも昨日の私より今日の私の方がきっと元気だ。